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平頂山事件とは

1932年9月16日、中国東北部の炭鉱都市、撫順近郊の平頂山集落で、日本軍が非戦闘員である中国人住民3,000名余りを虐殺した事件です。

平頂山事件の概要

1932年9月15日夜、遼寧民衆自衛軍と名乗る抗日組織(日本軍は当時「匪賊」と呼んでいた)により満鉄の経営する撫順炭鉱が攻撃され、日本人側に死傷者がでるなど大きな被害を受けました(撫順炭鉱襲撃事件)。これに対し、撫順を防備していた関東軍の独立守備隊第二大隊第二中隊は、翌9月16日, 襲撃部隊が平頂山集落を通過するのを知りながら通報しなかったのは同集落の住民が「匪賊」に通じているからだとして,報復のために同集落を中心に3000 名余りといわれる無抵抗の住民を虐殺しました。

平頂山事件の背景

1931(昭和6)年9 月18 日、中華民国の奉天(現在は瀋陽)近郊の柳条湖附近の満鉄線上で、爆発事件が起きました(柳条湖事件)。これは関東軍の高級参謀・板垣征四郎や作戦主任参謀・石原莞爾らが計画した謀略であした。関東軍は、これを中国軍が破壊したとして「北大営」(中国軍の兵舎)を攻撃・占拠。これを機に日本軍による中国東北部への侵略が始まり(満洲事変)、1932(昭和7)年3 月1 日には傀儡国家「満洲国」が建国されます。
「満洲国」は発足にあたって日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・モンゴル人の「五族協和」をうたい、「王道楽土」を実現すると称したが、その実態は全くこのスローガンとかけはなれたものでした。実態は日本人が征服者であり支配者であった。そのため「満洲国」建国後も中国人による反満抗日武装闘争はさかんに行われていた。その数は1932年春に30万人を越えていたと言われます。
柳条湖事件から1 年を迎え、中国民衆の抗日活動が活発化するなかで、日本国が「満洲国」と日満議定書を締結したその日(同年9 月15 日)に、抗日組織である遼寧民衆自衛軍が撫順炭鉱を襲撃する事件(撫順襲撃事件)が勃発する。これが平頂山事件の契機となりました。

平頂山事件の詳細

1932年9月15日

日満議定書が締結され日本は「満洲国」を承認。

9月15日夜

日満議定書が締結された日(15 日)の深夜から、抗日集団である遼寧民衆自衛軍により撫順炭鉱が襲撃され、楊柏堡採炭所長渡邉寛一氏が殺害されるなど大きな被害を受けた。撫順を防備していた独立守備隊第二大隊第二中隊は反撃し、16 日未明には遼寧民衆自衛軍は撤退した。 

9月16日

独立守備隊、憲兵隊、警察などの責任者らは、遼寧民衆自衛軍が引き上げた16日早朝会議を開き、平頂山集落の住民らは遼寧民衆自衛軍が撫順炭鉱に入ることを知りながら通報しなかったとして、平頂山集落の住民全員を殺すことを決めた。

平頂山事件
9月16日朝、独立守備隊は平頂山集落の住民に対し、「写真をとってやる」などとの口実をつかい、従わない住民に対しては暴力的に家から追い立て、住民を集落の西側にある崖下の牧草地に集めた。そして、集められた住民に対し、機関銃による一斉射撃を行った。その後日本軍は生存者を捜し、息のある人がいれば銃剣で一人一人刺殺した。また、日本軍は、平頂山集落の住居に火を放ち焼失させた。その後日本軍は死体にガソリンをかけて焼却し、崖をダイナマイトで爆破し、死体を覆った。

虐殺された住民は、中国の資料によれば約3,000名と言われている。老若男女を問わず、乳幼児までもが殺されている。

11月24日

11 月23 日、東北外交委員会委員王卓然は、中国の羅外交部長に、電報で平頂山事件について報告し、国際連盟などに知らせるよう要請した。翌24 日、中国外交部は、平頂山事件を公表し日本を非難。これに対し、日本政府は平頂山事件の事実を全面否認し、中国側の「虚偽報道」であり、「皇軍の名誉を棄損する」などと中国を非難した。

1933年​

日本、国際連盟から脱退。

​1947年

終戦後、事件当時撫順炭鉱次長であった久保孚氏は、平頂山事件に関わる容疑で監獄に収
監される。久保氏以外にも複数の者が平頂山事件に関わったとして収監された。久保氏ら
11 人は起訴され、瀋陽(旧奉天)の国民政府主席東北行轅審判戦犯軍事法廷で裁判を受けた。
起訴されたのは全員民間人であり、平頂山事件に関わった軍人は一人もいなかった。

1947年12月26日

瀋陽裁判判決
1947(昭和22)年12月26日、判決が下され、久保氏以下7名が死刑、4名が無罪。判決後、無罪の4名は釈放される。久保氏は、申弁書(弁明書)を国防部に提出した。しかし、久保氏の弁明は認められず、死刑判決が確定し、執行された。

 

1951年
事件現場に平頂山殉難同胞記念碑建立。

1970年

遺骨発掘。記念館建設
 平頂山事件により殺害された遺体は、事件後長い間埋められた状態であったが、戦後、
中国政府により発掘された。現在は、遺骨を覆うように記念館が建てられ、遺骨は虐殺さ
れた当時のままの状態で保存されている。

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