平頂山事件資料館
「撫順」から未来を語る実行委員会とは
「撫順」から未来を語る実行委員会の活動は、共通の思いでつながる人びとが手弁当でやっている草の根活動です。
なぜ「撫順から」なのか
中国遼寧省にある撫順。この都市には、かつて日本軍が平頂山集落の住民を虐殺した平頂山事件の現場と、戦後、日本兵が人間性を回復した撫順戦犯管理所(撫順戦犯管理所リンク)があります。撫順は「加害と再生」が行なわれた象徴的な場所なのです。
なぜ「未来を語る」のか
私たちは「撫順=加害と再生の地」の歴史を学び、事件の生存者の思いに耳をかたむけ、国を越えた市民間の平和で友好的な関係を築くという未来を見すえて、地道な取り組みを日々積み上げています。
「実行委員会」に参加している人たち
平頂山事件裁判を支援してきた人や、撫順戦犯管理所の兵士から体験を聞きその思いを受け継ぐ活動をしている人々や、日中間の平和友好を築く取り組みをしている人たちが参加しています。
会社員、弁護士、元教師、主婦、退職した人々、研究者、音楽家、映像ディレクター、青年等々、多彩な顔ぶれです。みんなの思いは共通です。
「撫順」から未来を語る実行委員会の活動
中国人戦後補償裁判の一環として1996年に提訴した平頂山事件裁判の支援活動が始まりです。2006年に最高裁で上告棄却され裁判には負けましたが、その後、さらに人の輪が広がり活動を広げながら現在に至っています。
Ⅰ 平頂山事件裁判の支援活動 1996年~2006年
平頂山事件裁判を支援してきた人や、撫順戦犯管理所の兵士から体験を聞きその思いを受け継ぐ活動をしている人々や、日中間の平和友好を築く取り組みをしている人たちが参加しています。 裁判は10年間に及びました。法廷でたたかう原告(事件の生存者)と弁護団を支援するため、裁判傍聴や報告集会、原告の証言を聞く会を続けました。原告は、10年間に延べ9回来日しています。来日の費用はすべて、多くの人々から「事件の解決を願う」という思いとともに届けられたカンパによってまかないました。
Ⅱ 2006年以降の活動
裁判終了後、事件の生存者の最低限の要求裁判・要求のページにリンクである日本政府の謝罪と、その証としての碑・陵苑の設置などを実現するため、市民と弁護団が一体となって活動しています。平頂山事件を多くの方々に知っていただくための市民集会、学習会、パネル展示、国際学術シンポジウムなどを行なっています。とくに、平頂山惨案紀念館と撫順戦犯管理所がある中国・撫順市の市民との交流を重視しており、互いに行き来するなかで、多くの友人をつくり、信頼関係を築いてきました。生存者の要求実現のために国会議員の協力を求める取り組みも行っています。
「撫順」から未来を語る実行委員会が制作したパンフレットは、イベントなどで購入できます。
1 「高橋哲哉×斎藤貴男 『撫順』ー加害と再生の地から現代と未来を語る!」(2006年8月20日東京しごとセンター)
平頂山事件訴訟は2005年5月13日に東京高裁判決が出され、
弁護団は最高裁に上告しました。
上告理由書及び上告受理申立理由書を2006年1月20日に提出し、
その後に実行委員会は最高裁前での宣伝活動を継続していました。
しかし、5月16日に上告棄却の決定が出されて訴訟としては敗訴し
ました。
不当判決を受けて弁護団と実行委員会は急遽6月に訪中して、幸存者ら
や中国側支援者に対する報告会を行いました。
さらに2006年8月20日に、抗議集会としてこの「『撫順』ー加害と再生の地から現代と未来を語る!」を開催しました。
この緊急集会に、『戦後責任論』(講談社)や『靖国問題』(筑摩書房)などで著名な哲学者の高橋哲哉さんと、『安心のファシズム―支配されたがる人びと』(岩波新書)や『「非国民」のすすめ』(筑摩書房)でも著名なジャーナリストの斎藤貴男さんが参加してくれて、二人の対談をメインとする集会を開催しました。二人とも、加害と再生の地である撫順を訪ねたことがありました。
この集会には350名以上もの聴衆が参加して満員となり、日本の加害責任の問題について活発な意見が交わされました。