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「写真機ではなく機関銃だった」楊玉芬(事件当時7歳)

 私の生まれたのは、1924年12月20日です。生まれたところは、平頂山です。
家は農家でした。お父さんの名前は楊占有、お母さんは、楊姜氏です。妹は楊玉英という名で、4歳違いです。家は、平頂山の北側にありました。当時は食べるのに精一杯で、学校には行ったことなどありません。ずうっと家の手伝いをしていました。

 1932年9月15日は中秋節でした。うちはとても貧しかったですが、父がリンゴを2つ買ってくれて、食べた思い出があります。当時、リンゴは月餅より高価だったので、とてもうれしかったのを覚えています。
この日の夜、深夜2時頃だったと思いますが、家族と窓の外の月をみていたら、たくさんの人が刀をかざして、「殺せ!殺せ!」叫び、北東をめざして走っていきました。怖かったので、すぐ窓を閉めました。そして、家族全員で白菜畑の方へ何も持たずに逃げて、一夜をそこで過ごしました。怖くて、露でびしょびしょになって、眠ることなどできませんでした。

 翌朝、4時か5時頃、家に帰りました。母親は食事を作り、父親は外へ出て行きました。私は家の外へ出て食事の支度を待っていると、日本兵を乗せた車が通るのを見ました。車は去っていったので、その後安心して、母親の作った食事を家族4人で食べました。
 食事を食べ終わったちょうどそのころ、2、3人の日本兵が家に来て、父に向かって片言の中国語で、「南へ、南へ、皆さんを守るので、南の方へ、集まって」と言っていました。父親からは、「日本兵は写真を撮ってあげる。大刀会から守ると言っている。」と聞きました。
 私はとてもびっくりして、怖くて、怖くて、母親の服にとりすがりました。私たち一家は家を出て、牛乳屋の近くにあった「干媽」(母親同然という意味)とよんで親しんでいた人の家の前を通りました。そのとき、干媽が写真を撮る必要はないだろうと言ったので、一度彼女の家に入りました。しかし、そこにも日本兵が来て、干媽と一緒に家から出されました。

 私たち一家が南へ向かう道路は、あふれるほどの人で一杯でした。日本兵の姿はみませんでした。私たちが追い立てられて集められた場所は、昔日本人が乳牛を飼っていた、崖下の広場でした。広場に入るとき、黒い布で覆われたものがありました。私はこれが写真機だと思いました。
 そこは広々としたところで、ばらばらに住民が集まってきていましたが、家族毎にひとかたまりになっていました。
 写真を撮ってくれると喜んで、リンゴや月餅を持ってきたり、服を持ってきたりした人がいました。私もそれまで、写真を撮られたことなどありませんでしたから、嬉しかったことを覚えています。
 私の家族4人は一カ所に集まりました。周りには人たちがたくさんおり、その向こうに日本兵の姿が見えました。

 そのうち、日本兵が集落に住んでいた朝鮮人たちを呼び出しました。皆は、何かおかしいと思い始めました。家のある方向から煙が出ているのが見えて、犬が鳴いたりしていました。
 突然、黒い布がとられました。それが写真なのか何なのか、わかりませんでしたが、その瞬間、すぐに撃ってきたので、機関銃だとわかりました。私たち家族と機関銃の距離がどれくらいだかわかりません。銃声が鳴り響き、雨のように銃弾がふってきました。父親は私を庇って伏せました。母親は妹を庇って伏せました。父親は、肩を撃たれました。母親も、身体を撃たれました。私と妹は無事でした。
 あるおばあちゃんが「私の手が痛い。血が出て怪我している」と叫んだら、日本兵が戻ってきて、銃剣で刺し始めました。ぶすぶすという刺す音も聞こえました。おばあちゃんが叫んだあと、銃撃はなく刺殺が始まりました。刺殺しているときは、靴の音が聞こえました。人の上を踏んでいる「ガシュガシュ」という音でした。不安定な足取りだったのがわかりました。父親が、「日本兵が来た。死んだふりしろ。息をするな。そうしないと刺されるぞ」と何度も言われました。それで日本兵が来ているのはわかりました。「あー」という叫び声も聞こえました。日本兵は撃つのを止めた後、銃剣で刺して行きましたが、父も私も妹も無事でした。

 私たちが広場に集められてから、日本兵が立ち去るまで、どれくらいの時間が経ったかわかりませんが、父親が「起きなさい、日本兵が立ち去った」と言って、私がはい上がったときは、午後5時くらいになっていたと思います。私は父親の身体の下からはい上がって、泣きながら母親を捜しました。そうしたら、母親は、すぐ側で、血だらけで伏せて倒れていました。何度も声をかけましたが、返事はしませんでした。母親の身体を起こすと、妹が下で気を失っていました。気が戻った後、妹は「お母さんは?」と言って泣き出しました。それで妹と二人、大声で泣いていました。。

 父親は「行こう。」と言いました。自分の靴は普通の靴より深かったのですが、歩いたときに血が一杯靴の中に入ってきました。また、歩いたときのグニャグニャしていた感覚を覚えています。
父親は肩に怪我をしていました。死体の上を歩いたため、歩きにくかったのを覚えています。また、父は妹を抱いて、妹に、「泣くな。日本兵が戻ってくる。」と話したりしていました。
 死体の山の中で、負傷して泣いている子どもが「助けてー」と叫んでいました。泣き叫ぶ声も聞こえました。私たちが現場を離れて逃げるとき、同じように立ち上がって逃げる子どもも見ましたが、どこに行くのかはわかりませんでした。私たちは、日本兵が来るのが怖くて、必死で逃げました。

 私たちは千金堡の方向へ逃げました。収穫の後のコーリャンやトウモロコシ畑に潜って隠れていました。途中の民家では、平頂山から逃げてきたというとかくまってくれませんでした。しかし、トウモロコシをもらいました。千金堡も焼かれていて、その後、郎仕溝へ行きました。平頂山から逃げてきたと言うと、日本兵をおそれて郎仕溝でも泊めてくれませんでしたので、父親の友人のいるところへ行きました。そこで、私たちが頼み込んで、かくまってもらうことになりました。私はそこでずうっと暮らしてきました。その後も平頂山の生き残りだと知られるとどうなるかわからないので、私たちはずっと口をつぐんでいました。平頂山から逃げた人をかくまえば殺すというような張り紙が貼られていたと父から聞いていました。その後、日本兵を見たことはありません。
 父親からは、平頂山に24人の親戚がいたけれど、この事件で、18人が亡くなったと聞いています。

 ぜひ、日本政府には、平頂山事件の事実を認めて謝罪し、亡くなって人たちのため陵苑と謝罪の碑を作り、将来の日中友好のためにも、事件のことをしっかりと伝えていって欲しいと思います。

 

(平頂山事件訴訟弁護団が2008年11月29日に撫順(中国)、2010年10月1日に東京(日本)で聴取した内容の要旨)

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